24時間テレビを観て… [映画・TV・ドラマ]
30年という数字に自分の年を顧みてしまったり…(苦笑)。
最初に募金会場に行ったのは5年目だったか、6年目だったか。当時の小学生半ばの私には深夜と言って良い時間、港の特設会場に来た欽ちゃんを遠目で眺めていた。実際握手したのはイモ欽トリオの良い子の山口さん。実際は若かったのだろうけど、子供の私にはおじさんに見えた(申し訳ありません)彼は、優しそうな笑顔で握手をしてくれ、私の頭をなぜてくれた。
中学2年、同じくイモ欽トリオ(その頃にはすでに解散していたが)の良い子長江さんとの募金中の握手がTVに映り、翌年の番組CMにその場面が使われて友達の間で大騒ぎになったっけ…。
走る前のアドバイスで嘗ての番組のマラソン経験者から言われてた言葉(赤井さんか、錦野さんだったと思うが)、いちいち答えてたら体力を消耗するから、冷たいと言われても無視したほうが良いと言われても、彼は声援を無視できなかったようだ。実を言うと御付の人達はそんな欽ちゃんにイラツク気持ちも有ったらしい。それでも彼は握手を返し、声を返し、完走した。
一昨日も言ったけど、本当にお疲れ様。やっぱり貴方は凄い人です。
他の色々なチャレンジをした人々もお疲れ様。自分の身体の障害に負けず前を向いて生きている姿に心を打たれました。ヒトゴトじゃ有りませんよね。今の世の中、危険はいっぱい。事故にあって、身体の自由が効かなくなる可能性なんていっぱい。その時私は、前を向いていけるのだろうか…。
身体が虚弱な分、ボランティアと言えば、盲導犬の街頭募金してくれた人に渡すワッペン作りとかを手伝った事がある位。身体で出来ない分、お金でしか参加できないけど、この優しい番組が続いてくれるよう祈ります。
ことしも感動をありがとうございました。
欽ちゃん70キロマラソン涙のゴール
今年で30回目を迎えた日本テレビ系「24時間テレビ30 愛は地球を救う」で最年長ランナーとして70キロマラソンに挑んだ萩本欽一(66)が19日夜、東京・日本武道館にゴールした。放送時間内には720メートル間に合わなかったが、13分後の午後9時5分、晴れ晴れと両手を広げて完走した。武道館の欽ちゃんコールに迎えられ「泣けちゃったよ。ありがとう」と語り、完走に胸を張った。初代司会者として放送30周年の節目に戻ってきた欽ちゃんは、番組の歴史にまた名前を刻んだ。
欽ちゃんが武道館のアリーナに姿を見せると、出演者と観客の盛大な欽ちゃんコールに迎えられた。客席から下りる階段で、足がもつれた。手すりにしがみついたまま動けなくなった。関根勤ら欽ちゃんファミリーや球団ゴールデンゴールズのメンバーに支えられ、両手を上げて晴れ晴れとゴールテープを切った。「みんながね、欽ちゃん、欽ちゃんって。泣けちゃったよ。ダメじゃなかったね。みんな、けっこう頑張る欽ちゃん見られて良かったね」。コント55号の相方、坂上二郎(73)の音頭でバンザイ三唱が起こった。
ゴールの瞬間は放送時間内に間に合わず、「行列のできる法律相談所」で中継された。武道館の玄関前の花道では、両手を横に振って欽ちゃん走りのポーズで歩き続けた。「あの方が走りやすいの。あれやってる時は真剣な時。最高の走りだよ」。ついに正面玄関に立つと、右手で目頭を押さえて男泣き。「みんなありがとう!」。沿道に両手を振って応えていた。
欽ちゃんの挑戦は18日午後6時58分、スターターとして駆け付けた坂上の「飛びます飛びます」の号砲でスタートした。しばらくは「ピクニックみたい。絶好調」とあんドーナツを4個もほお張る余裕だったが、日が昇るころには暑さと左足の痛みに悩まされるようになった。
19日午前には、延々と続く上り坂に悩まされた。東京の最高気温が32・4度を記録した午後2時ごろには、暑さにスタミナを奪われた。欽ちゃんは「足が『走る』とか『歩く』とかじゃなくて『知らない』と言っている」。歩いているのがやっとの状態で、座り込むこともあった。
「マラソンは断れても、24時間テレビは断れない」。初代司会者の責任感からランナー役を引き受けた。66歳、運動経験なし、1日60本を吸うヘビースモーカーの挑戦を案じる声も多かった。毎日の練習は、準備運動もせず、終了後のアイシングもしないという自己流だった。それでも1日30キロ走れるようになり、総練習量は歴代ランナーの中でもトップの423キロに及んだ。
「ディレクターは『飛ばしてください』『急いで』って言うけど、飛ばせないよね」。ゴール後はジョークも飛び出し、武道館を和ませていた。
- 日刊スポーツ [08/20(月) 11:00]
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